7.特別講演
※特別講演はテーマに即していれば、信仰と関係あるなしに関わらず広く学ぶことを趣旨としています。(無教会全国集会準備委員会)
「踏み絵にされ続け79年」在日コリアンの未来と朝鮮半島の平和に日本は? 阪神・淡路大震災から30年―風化させてはならない「市民=議員立法」運動 ―ここから生まれた「被災者生活再建支援法」 玄 香実(ヒョン・ヒャンシル)
プロフィール
![]() Ⅰ.「踏み絵にされ続け79年」在日コリアンの未来と朝鮮半島の平和に日本は? ① 塾生や学父母からつながる「ルーツ探し」 こんにちは、アンニョンハセヨ。沖縄から全国からこられた皆様との出会いに感謝します。今日の初めにお話ししたいのは踏み絵にされ続けて終戦から79年。あと2か月で80年になります。「踏み絵にされ続けて79年在日コリアンの未来と朝鮮半島の平和に日本は?」とクエスチョンしました。というのは、主題講演された榎本空さんが雑誌『世界』に「島に帰る」を連載されておられますが、今月号(2024年11月号)には「80年間の戦後。 別の文法は何なのか?」、そして別の記憶、違う記憶は何なのかと書かれていました。 皆さんにも別の記憶、別の文法を考えてほしいと思います。そして別の記憶、もう一つの記憶をよく考えてほしいという意味でこのタイトルをつけました。私は神戸生まれの神戸育ちで長く教師をしていました。東京でも教師をしていましたので、いろいろ考えることがあります。私の塾では日本人、中国人の一世、在日の朝鮮学校の子、三つの国の子たちが学んでいます。人数は少ないです。先ほどの独立学園のように定員割れ。定員割れは日本の大学もどこも一緒です。少子化だから。私の塾の名前はASUKA塾と言います。日本の歴史の中で私は飛鳥文化が大好きです。朝鮮からの文化が日本の文化に恩恵を与えていることがわかりますので。それを国際的なネームとしてASUKA塾としました。 本当に体験学習が身についた知識となります。オリエント博物館も行き、東洋文庫ミュージアムでの学習の後、在日コリアンの若い青年や朝高生、日本の学校に通う高校生徒との「私たちのルーツ探し」もしました。その時訪ねた今井館で荒井克浩さんや原田京子さんとの交流が、体験学習の果実です。 ② おたあ・ジュリア ―数奇な一生が問いかけるもの― 私の塾の学父母に、神津島出身の方がいました。日本の方で養護学校の先生でした。その方が「おたあ様って知ってる?朝鮮から連れてこられたおたあ様。私たちの島ではとてもお慕いしているのよ」と言われました。 私は中高生の塾生たちと塾の学父母と共に神津島に行きました。夜10時に日の出桟橋から船に乗り、着いたのは翌朝9時でした。神津島にはおたあ・ジュリアの墓と資料館がありました。そしてその島を巡って私が考えたことを書いたのが資料の「おたあ・ジュリア ―数奇な一生が問いかけるもの― 」。おたあ・ジュリアはクリスチャンたちがつくった伝説の人であると思われていましたが、2023年の朝日新聞の天声人語(資料参照)に、おたあ・ジュリアが弟に送った直筆の手紙が発見されて、実際にいた人物であることを確認しました。弟も連れてこられたのです。そこには「ジュリアおたあは悲劇の女性だ。豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島から連れてこられ…」と書いてあります。 豊臣秀吉の朝鮮侵略が日本の教科書でどのように扱われているでしょうか?私は日本の中学校へ通う中国人の1世の子を教えています。その子が学んでいる副教材『学び考える歴史』には「二十六聖人殉教」が載っていて、さらに「文禄の役・慶長の役」と載っています(資料参照)。「朝鮮侵出」「朝鮮侵略」とは一切書かれていません。そこにある年表には「1592年4月 小西行長らが釜山に上陸。明への道を貸してほしいと求めるが返事がないので攻撃をする」と書かれています。これは何でしょうか。「通行止めしないで通してくれ。通してくれないなら攻撃する」という内容でしょうか?京都の豊臣神社の真ん前に「耳塚」があります。それには、「吉川軍が1597年の約40日間に豊臣秀吉に戦勝の証として送った鼻が約3万」と書かれています。戦勝の証しとして、どうして鼻を切ったのでしょうか?首は重いので、人間の一番高貴なところである鼻を切って送ったのです。有田焼については「文禄の役・慶長の役の時につたわったもの」とあります。「戦勝品」なのです。その際には陶工である李参平なども拉致してきたのです。現代の日本の教科書は、「朝鮮侵略」とは書かずに「~の役」で誤魔化しています。この豊臣秀吉の朝鮮侵略を日本史としてだけではなく、世界史的に見なければならないと『民岩太閤記』を書かれた小田実さんが指摘されています。 豊臣秀吉の朝鮮侵略。それ以前は稲作を朝鮮半島から取り入れたりしました。飛鳥時代に、それまで瓦の模様が絵だったのが字になったのは朝鮮半島から来た人が教えたことを、深大寺に行けば見ることが出来ます。 2001年8月、清瀬にある多磨全生園で、国本さんや森元さんらとの交流会に参加しました。日本の大学院生や大学生、朝鮮高校生がおどろいたのは、入所と同時に外国人登録証を取り上げられたということがわかったことです。体験学習はとてもいいです。 来年戦後80年になりますが、80歳になる方もこの中にはいるでしょう。阪神大震災から30年経ちますが、その年に生まれた人もいるでしょう。今日朝鮮半島をめぐる状況はいろいろです。大韓民国とは日韓条約で国交回復しましたが、北の朝鮮民主主義人民共和国とはまだ国交が結ばれていません。私たちは政治家や学者の観点でそれを見るのではなく、在日コリアン4世の立場で見ることが大切です。朝鮮学校に通っている子たちはニュースを見るたびに怖がります。拉致の問題が出たりしますので。そして中国人の方も同じです。マスコミの報道を見ると、中国、朝鮮のバッシングは多いように思う。 私たち朝鮮人の国籍の問題ですが、私は朝鮮籍です。私の孫は小学校2年生で朝鮮の学校に行っていますが、幼稚園は日本の保育園でした。日本の保育園だから無料でしたが朝鮮の幼稚園は幼保無償化政策の対象外になりました。萩生田文部科学大臣の時に、消費税を上げた分を幼保の無償化に使うと言って日本の幼稚園、保育園は無料となりました。ところが40校ある朝鮮の幼稚園、保育園は除外とされました。朝鮮高校も10校ありますが、ここも排除されています。ブラジルの学校やほかのインターナショナルの学校はもらっています(パンフレットに参照)。2年生の孫などは給食がないので毎日弁当です。お母さんは毎朝早く起きて弁当を作ります。そしてうちの孫の月謝は毎月3万3千円。更に弁当をつくらねばなりません。毎月3万3千円はしんどいです。日本政府の援助は一切ありませんが、地方自治体によっては高いところもあるし、低いところもあります。荒川区は7,000円を補助金として出しています。この補助金は以前は学校の教育会に一時送っており、その後現在は父兄がもらっています。この前、野党の地方議員が「玄さん、朝鮮幼稚園にも補助金を出すようにしましたよ。だけどどうして以前教育会があのお金を受け取っていたんですか?受け取ったお金は北朝鮮に行くんですか?」と言いました。あの補助金はお恵みじゃないんです。幼保無償化は消費税を上げた分を財源としているのです。私たちも消費者です。政党助成金まで払っています。「あなたみたいな議員が野党議員でいるから79年間も朝鮮民主主義人民共和国と国交が開けていないのだ」ときっちり言いました。彼は謝りました。とても恥ずかしいことです。最近は野党でもしっかりしていません。私たちが教えてあげなければならないのです。 朝鮮学校の子たちが大学受験するときには、高卒認定と留学生試験が必要となります。この二つに合格しないと大学受験ができません。朝鮮学校は今、日本国籍、フィリピン国籍の子も来ています。意外と多国籍の人が集まっています。しかし人数が少なくなってきています。それはなぜかというと、やはりこういう補助金問題で生活が苦しくて行かせたいけど行かせられないという在日コリアンの人たちが多いからです。一生懸命キムチをつけて売り、母さんも必死で働いて、うちの孫もお嫁さんが働いているので、朝鮮学校が2時半に終わると、子どもをバスで学童クラブまで送ってくれます。二つの世界で生きているのです。学童クラブで日本の幼稚園の子と一緒だった孫は、「イルボン・ハッキョ(日本の学校)へは行きたくない、朝鮮の学校へ行きたい」と言います。 ③ 戦後79年朝鮮民主主義人民共和国と未だ戦後補償もなく国交がない現実が在日コリアンの未来に及ぼす影響 朝鮮学校に通う学生たちに対するヘイトスピーチの問題。うちの塾に通う学生がされた事件です。今は学校の制服は洋服ですが、かつてチマチョゴリで通っていた時期に、チマチョゴリを裂かれた事件がありました。まだ犯人は見つかっていません。見つけようとしていないかもしれませんが、わかりません。また山手線の電車の中で朝鮮学校の学生が「お前は『北』か『南』か」と言われておいかけられた子がいます。北というのは朝鮮民主主義人民共和国のこと、南は大韓民国のこと。韓国だったら何にもしないのですか?北だったら何かするのですか?と言いたいです。その子は泣いて帰ったそうです。サッカー部の子が塾に来ていたが、練習試合のときに日本の学生に「お前拉致するぞ」と言われました。その日本の学生は試合を有利に進めるためにそのようなことを言ったのかはわかりませんが、かえって怒りが湧いて練習試合に勝ったといいます。未だに十条の前では「こら朝鮮人」と言われます。今、朝鮮半島の問題がニュースなどでも言われていますが、この子たちに朝鮮半島の何を背負わせるのでしょうか? この間衆議院選挙が終わりましたが、日本国籍でないと国会議員にはなれません。しかし地方自治体では、1995年に在日外国人に地方自治体での選挙権を与えないことは違憲であると最高裁判所の判断が出ており、国の立法に問題があると指摘しています。小池都知事がかつて新党をつくろうとしたときに、地方参政権に反対する政策協定書を踏み絵にしました。まるで十字架のように。在日外国人に参政権を与えることに賛成するかしないかで自分の党をつくろうとしたのです。何と失礼なことでしょうか。最高裁で判決も出ているのに、地方自治体でも議論されているのに。このようなことは日本の市民はあまり問題にしませんが、「一票で変える女たちの会」で書いた文章が資料にあるので、お読みいただきたいと思います。 今年の10月下旬、日中友好協会が主催した「東アジア文化フェスタ」が行われました。日本、韓国、中国、朝鮮の文化交流でしたが、中国は満蒙開拓団の残留孤児が京劇を舞いました。日本は沖縄の伝統舞踊。韓国は韓国籍を持っている子たちが踊りました。 最後を飾ったのは朝鮮高校の舞踊部の出演で、これは圧巻でした。この子たちが学んでいるのが、補助金で差別され、ヘイトスピーチで差別されている朝鮮学校です。中国籍の子は夏休みになると、国交を回復しているためパスポートがすぐ出るので中国へすぐ行けます。韓国籍の子、朝鮮籍の子はパスポートを取るのがなかなか難しいのです。韓国籍の人が共和国に行くとなると、韓国の大使館は今はものすごく厳しいです。 4世になってくると無国籍の子がでてきました。朝鮮籍のお父さんと韓国籍のお母さんの間に生まれた私の孫が、ちょうど100日を迎える数日前に保健師さんから電話が来て、赤ちゃんが「無国籍になってますよ」と言われました。期限内に区役所に手続きをしているのにもかかわらず。数年前までは外国人登録係が区役所にあったのですが、今はなく、住民係になっており、その住民係が在日ということを知らないことが問題でした。これに関しては荒川区議の斉藤ゆう子さんが取り上げてたいへんな問題になりました。期限が切れた場合はすぐに入国管理局にいかなければなりません。私たちの立場は、国交を回復していないせいで宙ぶらりんの状況であり、出入国管理上の問題があるといつでも捕まえられる立場にあります。サンフランシスコ講和条約の際にはまだ朝鮮民主主義人民共和国は成立していなかったので、「朝鮮籍」の「朝鮮」とは国名ではなく、単なる地名に過ぎないのです。課長と係長と一緒に出入国管理事務所に行き、「住民係のミスなのだから、すぐに籍をいれろ」と言い、やっと籍が入りました。(※『小田実没後10年 憲法発布70年目の世直し』大月書店、参照)これからも4世の問題として、これに近い問題が出て来ると思います。なぜかというと戦後80年になろうとしているのに、朝鮮民主主義人民共和国と国交が結ばれていないからです。 私が病院で診察を受けた時、書面に国籍を書く欄があり、そこに「朝鮮」と書くと、係員が来て「『朝鮮』とは『北朝鮮』のことですか?」と聞かれました。私は「あなた、サンフランシスコ講和条約を知っているか?『朝鮮』というのは『北朝鮮』ではない。『北朝鮮』だったら正式の国名があるよ」と言いました。こんな状態なのです。私は世界地図を学生に見せながら、朝鮮半島がガザのようになってほしくないと言います。そのためには日本はどのような役割をするのでしょうか。日本には為すべき役割があるのではないでしょうか。平和憲法を持っているのですから。在日4世になるまで、朝鮮半島の片方の国と国交が結ばれていません。日朝平壌宣言はどうなったのでしょうか?与党の議員だけでなく野党の議員までもが拉致議連のバッチをつけています。そのような状況で解決するのでしょうか。鉄でもなんでも79年たつと腐ってボロボロになります。文化的な交流もない経済交流もありません。人と人がこうして会ってお茶飲んで、こうして話して交流が始まり、気心がわかります。何もしないだけじゃなくて、バッシングする。そのようではお互い憎まれ口をたたくだけとなります。それでいいのでしょうか。日本は来年戦後80年ですが、この後もこのままいくのでしょうか。 チマチョゴリ事件の時には日本の地方議員がチマ・チョゴリのバッチをつけて守ってくれました。小田実さんが代表の「中心21」が呼びかけ、韓国の国会議員で従軍慰安婦の創作舞踊をされた姜恵淑(カン・ヘスク)さんなども来られて、チマ・チョゴリ事件に抗議して『サルプリ』を舞いました。また従軍慰安婦の問題に対して声をあげてくださいました(『小田実のデモクラシーと希望』大月書店、26頁、28頁写真参照)。大事なことは、関心を持つこと、記憶をもう一度取り戻すこと、記憶を伝えることです。在日1世に近いお年寄は記憶を次の世代に伝えることです。私はそれが鍵だと思う。 戦後70年に安保法制化をし、集団的自衛権を容認し、平和憲法がくずれてきている中で、2025年はいよいよ戦後80年になりますが、体験平和主義者(戦争経験者)の存命数が少なくなる日本社会に住む在日コリアンに関する以上のような問題を身近に感じてほしいと思います。 Ⅱ.阪神・淡路大震災から30年 -風化させてはならない「市民=議員立法」運動 ―― ここから生まれた「被災者生活再建支援法」 ① 体験「市民=議員立法」運動者として 次は「市民=議員立法」の話。阪神大震災が起きて来年1月で30年です。阪神大震災10周年の時に書いた「ガレキの中から生まれた『市民=議員立法』運動」という文章を資料に載せたのでお読みいただきたいと思います(『これが人間の国か』リブロ社刊)。 ここにいらっしゃる坂内宗男さんやお連れ合いの坂内義子さん、当時新社会党の議員だった栗原君子さんの秘書・今村直さんや、亡くなられたキリスト者の糸井玲子さんとも「市民=議員立法」を一緒にしました。 資料の写真を見て頂きたいと思います。電信柱が倒れて焼けています。これは私が生まれて育った新長田駅の前です。下の写真は神戸市東灘区の避難所となった学校の、建物に入れなかった人が運動場で敷いた布団の中で娘とお母さんがおにぎりを食べています。左上の写真は阪神電鉄の高架が崩壊した写真です。 阪神大震災は1995年1月17日午前5時46分に起こり、マグニチュード7.3でした。圧死者が5000人です。私は7人姉妹ですが、私と共和国の元山(ウォンサン)に帰った姉のみが震災には立ち会えませんでした。大阪と神戸の間で全く電話が通じませんでした。元山からは国際電話なので通じました。 父は入院していましたが、一日帰りたいと言ってちょうど1月16日に家に戻っていました。帰った翌日1月17日に震災に合いました。全壊のガレキの中から助けられ、病院に戻ろうとしたら、他の被災者が父のベッドに入ってしまっていました。父は酸素吸入をしていましたが、仕方なく隣の小学校に1週間避難しました。避難したところには酸素吸入もなく、オムツもなく、搬送する病院もなく、父は関連死で亡くなりました。母もそのあと亡くなります。父の葬儀を大韓民国の済州島でおこないましたが、私と姉は朝鮮籍のため、その時の大韓民国の政権の都合で行けませんでした。そのあと5年後、母が亡くなりましたが、その時の政権は民主的な政権であり、母の遺体と一緒に行くことができました。朝鮮籍だから、墓がある韓国の済州島にも行けなかったのです。国交さえ結ばれていれば、行けるのです。墓がある済州島にも自由に行けないのです。 震災翌日1月18日、私が勤めていた西神戸の朝鮮学校(西神戸初・中級学校)に行きました。そこには区役所から来ているはずの水も救援物資も来ていません。そこには近所の日本の人たちも避難してきていて、その人たちには在日の父兄たちがキムチやクッパなどの温かいものをあげて応対していました。東神戸の朝鮮学校も同じです。行政は支援をまったくしておりませんでした。 私が担任をしていた小学校6年生の子は、4人家族でしたが、4歳の子以外3人とも圧死でなくなり、残った子は震災孤児となりました。震災孤児が意外と多かったです。震災孤児は103人おりました。この数字は日本の学校の統計です。私は育英基金に電話をしました。「こういう孤児がいるが、そこには配りましたか」と。しかし彼らは知りませんでした。朝鮮の学校は一切把握していなかったのです。西神戸朝鮮学校には、私の姪の同級生の子の遺体が来ました。朝鮮大学の学生です。そのようなことをさんざん見ました。5~10万円の義援金だけですませようとしました。それだけで生活再建ができるのでしょうか。震災は天災だけれども、そのあとの関連死・孤独死、生活再建ができずに自殺した人もいます。 私たちは小田実さんを中心として「市民救援基金」を呼びかけ、行政が行き届かないところに配布しました。朝鮮学校、ベトナム難民のテント村、キリスト教会に配布しました。「市民救援基金」では行政の隙間で苦しんでいる光のあたらない被災者の希望となり力強い支えではありましたが、つまり義援金では助けられないということがわかりました。災害大国日本では、国が保証して公的に生活の支援をします。そういう制度が必要ということで、「市民=議員立法」を考えました。市民が案を出し、超党派の議員に呼びかける。日本では初めて一つの政党だけに陳情しない、ゲタを預けないやり方です。私が東京事務局長をするとき、小田実さんが言いました、「国会議員に会ったら先生と呼ばない。~議員と呼ぶように」と。これをずっと貫きました。秘書も官僚も「~先生」と呼んでいます。市民が「先生」ではありませんか。政党や議員にゲタを預けない。市民が案を作る。その案は全壊世帯に対して500万円支援するというものです。今回の能登半島地震では300万では足りずに500万円という話が出ています。半壊で250万円としました。市民の案、「市民=議員立法『災害被災等支援法案』」を出して超党派議員に呼びかけて、賛同をもらい参議院に上程しました。ロビー活動をすると、「そんなにやりたかったら自分が議員になっておやりなさい」という野党議員がいました。この議員の理念は市民の理念と余りに乖離していました。自民党はさらさらする気がありませんでした。運動はすごく追われていきます。そのような中で朝日新聞の「素粒子」(資料参照)が取り上げてくれたのが励みでした。3年くらいかけてありとあらゆることをしました。国会前のデモをし、朝日新聞に意見広告を出しました(資料参照)。これを見てデモに集まってくださる方々が多かったです。私の名前を見て、在日の人々もカンパしてくれました。(※資料;写真と意見広告参照) 今は恒久法ができていますが、その時は三つの案が出ました。一つ目が私たちの案である「災害被災者等支援法案」。これは超党派の議員の提案として提出されました(1997年5月。田英夫〔社民〕、本岡昭次〔民主〕、山下芳生〔共産〕、栗原君子〔新社〕、片上公人〔平成会〕、島袋宗康〔二院クラブ〕。賛同議員33名)。二つ目が新進党、民主党、太陽党から提出された阪神・淡路大震災に限定された時限立法「阪神・淡路大地震の被災者支援法」。その幹事長が私に言いました、「なぜあなた方は恒久法なのか?」。私はこう答えました、「私たちのような人たちが後に続くのが嫌だから恒久法が必要なのだ。どうしてあなた方は時限立法にするのか」と。この時限立法案は党派の駆け引きで提出されたと思います。それは廃案となりました。そして三つ目として私たちの案と与党案を合体させた「被災者生活再建支援法」が共産党を除く各会派が合意し6会派合同で参議院に提出され、1998年4月22日に可決されました。しかしこれは阪神・淡路大地震の被災者に対しては、遡及適用されず、「同等の行政措置」をすべしとの付帯決議がなされるのみでした。この法律では全壊の支援金が100万円。今は改正されて全壊で300万円になっています。今回の能登大震災の被災者たちはそれでは足りないと言っていますし、足りるわけがありません。30年前、1.17震災の日本は自・社・さ連立政権でした。災害大国日本は「義援金」だけですませてきた、災害対策にはまず国が公的援助の土台を、その上に地方自治体の援助がいる、その上に私的支援の三本立て支援が必要と小田実さんが『これは人間の国か』で述べています。 陳情ではなく「市民案」をつくり、それを超党派の国会議員の賛同を得た「市民=議員立法」をつくりました。陳情しない、抗議しない、ゲタをあずけない、衆参全国会議員に「市民案」と手紙を出すことから始まりました。「市民=議員立法」に保谷市を始め地方自治体の意見書が可決され、夜行バスで神戸から来た被災者が、国会前でデモをしました。 「市民立法」の創造は「主権在官」「主権在政」「主権在財」の日本政治に「市民=議員」、「われ=われ」と民主主義を再生させました(1996.7.18毎日新聞)。被災市民と支援市民、共に手を取り助け、学校の先生は「市民立法」公開授業で中学生に教え、記者は書き、広く伝え、地方議員は意見書を可決し、作家も書きました。在日コリアンの主婦もキムチを売り、意見広告へ集い、デモに参加しました。真に国籍、地縁、血統、民族を越え「人間の国へ」と願う市民たちが、「われ=われ」として参加しました。それぞれの立場を生かし、一人の人間として「市民=議員立法」体験者となりました。(参考;『これは人間の国か』リブロ社、小田実『被災の思想、難死の思想』朝日新聞社) 1997年3月1日、被災者支援法成立へのデモが渋谷の宮下公園でありました。その日は娘の高校卒業式で、雪が降っていました。式終了間際に、ある国会議員から「玄さん、今日のデモの集会場所はどこですか?」と私の買いたての携帯に電話がありました。この日、デモに参加するため大阪から上京して来た姉と卒業式後、謝恩会も出ず、娘にはゴメンネと言って渋谷の宮下公園でその議員とも合流し、上京して来た小田実さんや被災者と共に、雪の降る都内をデモ行進し署名を集めました。この日は朝鮮を日本の植民地から解放するための3・1朝鮮独立運動の記念日でもありました。 ② 若い世代につなげる2025年・戦後80年――阪神・淡路大震災から30年 戦後80年、30年前の阪神・淡路大震災の時の日本政治と今と何が変わったのでしょうか? 30年前当時、日本政府は自・社・さ連立政権であり、現在は自・公+?の少数与党政権です。来年の大阪万博に150以上もの国や地域を集め、海を埋め立て、特質の建材を使い、能登の災害復興に向けるべき公的資金と多くの建設労働者を―人手不足にもかかわらず―大阪万博に集めているこの国の姿は30年前山一証券や破綻した金融機関に600億円以上の公的支援をすぐさま行いながら、被災者支援法に後ろ向きであった当時の政府と重なります。 2025年春の大阪万博に150以上の国や地域を呼び込む日本が、古代から歴史的にも文化的にも深いつながりがある朝鮮半島の38度線から北の国「朝鮮民主主義人民共和国」と戦後80年国交を結んでいません。こんな日本でも、不戦を掲げた平和憲法がある国です。「日朝平壌宣言」はどこへ吹っ飛んだのでしょうか。 戦後80年、阪神・淡路大震災から30年、若い世代につなぎたい——思い出ではなく、ドキュメンタリーではなく——何よりも現場で体験してほしいと思います。そこから歴史的事実を、真実を、日本の「平和」主義市民は、戦争加害者と被害者との重い体験をつないで行ってほしい!私は在日コリアン2世として、マイナスから始まった苦難の1世のオモニ、アボジの日本での生きざまとその後をつなげようと思う。2世、3世、4世と共に! 最後に言いたいことは、最近の裏金問題は陳情政治のなれの果てだということです。 在日コリアンの事に関して関心を持ってもらいたいと思います。関心をもったら動いてもらいたいです。また日本が朝鮮民主主義人民共和国と国交を回復しないまま来年で80年。そのまま続けますか?朝鮮半島をガザのようにしますか?私は皆さんだから、きっと感じてくださると思います。戦後80年、「ほんとうの平和」を解く方程式が見つかることを願います。皆様とのつながりを胸に。がんばりましょう! 《以下 特別講演資料抜粋↓》 ![]() ![]() ![]() 1981年に「姜恵淑舞踊グループ」を創立。「歴史発展に参与する舞踊」という旗を掲げ、数多くの公演を行う。分断の苦痛を受ける者の立場に立って「まっとうな生」に寄与する舞踊の創造をリアリズム的舞踊言語によって追求してきた。 1980年代の韓国民主化闘争の嵐の中、倒れて逝った人々のためにデモの広場で「サルプリ」を舞い、死者の霊をなぐさめ多くのファンの心を魅了した。 1994年に中心21(代表:小田実)の招待で「“共生”を日・韓市民が考える」芸術の夕べに出演。チマチョゴリ事件に抗議し、東京、大阪でサルプリを舞う。 (『小田実のデモクラシーと希望』大月書店、26、28頁) ![]() ![]() ![]() |